Antique history アンティーク年表
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HENRY 8
ヘンリー8世 -
TUDOR
テューダー -
1558エリザベス1世が即位
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1559エリザベス1世がローマカソリック教会から
独立した英国国教会を確立 -
ELIZABETH 1
エリザベス -
GOTHIC
ゴシックゴシックとは本来中世ヨーロッパの建築様式を示す。フランスで始った大聖堂建築を発端に美術や哲学にも浸透していく。当時のヨーロッパは内乱や対外戦争が続いていた。そのような環境の中で文化の中心はやはり教会であり、教会建築の様式や内装が家具の装飾モチーフとして取り入れられた。それらは尖塔アーチであり、太陽光を広く取り入れる尖塔窓であり、石工達の彫刻であり、祭壇を飾るドレープであり、聖餐式に使われる銀器であったりした。高さを強調したバランスの悪い建築様式として、イタリア人は野蛮な種族による未完成の建築として”GOTICO(ゴート人の)”と呼んだ。ゴート人とは北方ゲルマン民族の古い種族で、建築とは一切の関係は無かったが、これがゴシックの語源とも言われている。別説ではGOD(神)に接尾語であるTHICが付きGODTHIC→GOTHIC(神の)という意味であるとも言われている。
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FRENCH RENAISSANCE
フレンチルネッサンス -
ELIZABETHAN
エリザベシアン様式テューダー様式の中で特にエリザベス1世の治世下の家具の様式を指す。装飾の基調はゴシック。使用された材はオーク材。内政の安定と国力の増強を窺わせる彫刻をふんだんに多用した豪奢な家具が作られる。
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1600イギリスが東インド会社設立
1600年東洋貿易を目的に設立されたイギリスの独占的、政治的商業会社。当時東インドとはインド以東のアジア全体を示した。資本の構成方法は近代の株式会社の起源とされる。オランダ、フランスとの勢力抗争の末、インドに拠点を確保し、実質上インド全域を支配するまでに勢力は拡大した。18世紀後半には中国貿易を独占し、中国産茶葉の需要が急激に拡大すると、仕入れ資金の調達に苦しんだ会社は、インド産のアヘンを中国に非合法的に輸出した。これがアヘン戦争の原因となる。茶葉以外にも中国、日本の文物が徐々にイギリスにもたらされる。陶磁器、漆器、蒔絵工芸、絹織物、刀剣、金銀製品等。これら東洋文化の紹介が、後に1660年のチャールズ2世の王政復古後のイギリス第一次中国趣味の発生を促す。特に磁器においては当時のイギリス人を魅了した。17世紀後半にはバッキンガム公爵ジョージ ヴィラーズがヴァクスホールの地に専売ガラス製造工場を設立。高価な磁器を飾る為にガラス扉の付いたチャイナキャビネット=グラスキャビネットの発生を促し、後にイギリスボーンチャイナの製造へと繋がっていく。
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1603徳川家康が江戸幕府を開く
エリザベス1世が死去 -
JAMES 1
ジェームズ1世 -
EARLY JACOBEAN
アーリージャコビアン様式ジェームス1世から始るステュワート家による王朝をジャコビアンと呼ぶ。期間は1603~1689年。その間一時王権が倒れ共和制の時代があり、その前後に分けてアーリージャコビアン様式、レイトジャコビアン様式とする。エリザベス1世には世継がなく、その後継者となったのは、かつてエリザベス1世が処刑に追い込んだスコットランド女王メアリーの息子スコットランド国王ジェームス6世であり、イギリス国王を兼任する形で即位。今迄イギリス王室にジェームスという名の国王が存在していなかったので、イギリスではジェームス1世とされた。カソリック教徒であった彼はイギリス国内の英国国教会やプロテスタントを迫害した。これにより情勢は再び不安定となり、その結果家具の様式上では特筆する変化がない。使用されていた材はオーク材であり、エリザベシアン様式の豪奢な装飾が欠落し、形状はそのままでシンプルになっていく。アーリージャコビアン中期になるとヨーロッパ大陸からルネッサンスの波が押し寄せ、ゴシックの教会建築のモチーフからの変化が見られるようになる。
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RENAISSANCE
ルネッサンスルネサンスやルネッサンスとも言う。再生や復活を意味するフランス語であり、19世紀フランスの歴史家ミシュレが初めて学問的に使用した。文化史、文学、芸術、精神史等の様々な分野でその捉え方に違いは見られるが、14〜15世紀にイタリアで興った文化運動がヨーロッパ各地に波及していったという事では概ね一致している。その言葉には種々の翻訳が与えられるが一義的に捉える事は難しい。14世紀〜15世紀のヨーロッパは暗黒の時代とも呼ばれ、ペストの流行や一方的な宗教弾圧が渦巻いていた。そのような環境の中、一元的なキリスト教支配の限界を感じ、古代ギリシア、ローマの古典を再認識し、様々な分野、形態において変化を促した時代であった。これを人文主義、自然科学主義と言い表す事もできるが、より単純に考えれば、カソリック教会文化からの脱却により、古来からの民族的な風習や因習に題材を求めるという図式である。英国には16世紀後半〜17世紀初頭(エリザベシアン後期〜アーリージャコビアン期)に波及した。ゴシック様式からの劇的な変化が期待されたが、ジェームス1世がカソリック教徒であったこと、またその後の共和制により開花する事はなかったと言える。
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CHARLES 1
チャールズ1世 -
1620アメリカにメイフラワー号上陸
ピューリタン革命(清教徒革命)の起こる以前に、非英国国教徒への弾圧から、信仰の自由を求めメイフラワー号に乗り、イギリス南西部プリマスからアメリカのマサチューセッツに移住した新教徒達をピルグリムファーザースと呼ぶ。母体は17世紀後半フランスで組織されたプロテスタントの一宗派が迫害を受けイギリスに渡り、1650年頃イギリスで起こったクエーカー教徒と結びつき発展。アメリカに渡りシェーカー教徒となり、彼らの創った工芸品や家具等が後のアメリカ美術史に大きな影響を与えた。イギリス本国ではこの後起こったピューリタン革命により、一時的な王政廃止と共和制(1649~1660)が引かれ、教区独特の家具(レリジョナルファニチャー)が製作されたが、家具様式の発展においては大きな影響を残すことはなかった。
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COMMOMWEALTH
コモンウェルス -
CROMWELLIAN
クロムウェリアン -
LOUIS 14(BAROQUE &ROCCOCO)
ルイ14世(バロック&ロココ) -
1649ピューリタン革命。
イギリスで国王チャールズ1世が処刑される -
CHARLES 2
チャールズ2世清教徒革命以後共和制が引かれたが、中心であったオリバー・クロムウェルの専横が始まり、結果国民は王政復古を望み、共和制は廃止され、王政が復活する。ヨーロッパ大陸に亡命中だったチャールズ1世の子がチャールズ2世として即位。ポルトガル王女キャサリン オブ ブロガンザと婚姻した。ここにスチュワート朝が復活する。チャールズ2世からクィーンアンまでを後期ジャコビアン期とするが、家具の様式上はウィリアム&メアリーとクィーンアンはそれぞれの特徴が強く、分けて見ることにする。王政復古で帰国する際に、彼はヨーロッパから職人を伴ってきた。またスペイン王女の輿入れとともにヨーロッパの最先端の技術がイギリスに導入される。また先に創設されていたイギリス東インド会社により東洋の文物も輸入されていた。よってヨーロッパで芽生えていたバロックの兆しと東洋趣味が混ざり合い、そこにポルトガルやオランダの影響も入り独特の様式が完成する。これをレストアレーション様式やキャロライン様式等とも呼び、トランジショナル(過渡期)スタイルとしている。使用された材はウォールナット材である。
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JAMES 2
ジェームズ2世 -
LATE JACOBEAN
レイトジャコビアン -
1661ルイ14世が親政を開始
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WILLIAM & MARY
ウィリアム&メアリー様式フランスルイ14世の親政に見られる絶対王権の強化がヨーロッパに広まり、イギリスにおいてはチャールズ2世とそれに続くジェームス2世の治世において、議会を無視した専横政治が起こった。これに対して議会はジェームス2世を廃位し(名誉革命)、甥にあたるオランダ総督ウィリアム3世とジェームス2世の娘メアリー女王による共同統治を成し遂げる。また1685年にはフランスにおいて、新教徒(ユグノー)の信仰の自由を保障していたナントの勅令が廃止される。これにより当時の技術者集団であったユグノーの多くがイギリスに逃れ、かつウィリアム3世の即位によりオランダからも技術の流入が起こる。ここにウィリアム&メアリー様式が確立される。全時代まで無垢材で使用されていたウォールナットは様々な木材と共に突き板で使用され、主な装飾方法はイタリアで始まり、フランスで開花したマーケットリー(象嵌)が中心となっていく。
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ANNE
アン -
1666ロンドン大火。市の8割が灰燼に帰す
1666年9月2日に始まったロンドンの大火事。3日間に渡って燃え続け、市の8割が灰燼に帰す。市の再建の中心になったのはクリストファー・レンであり、彼の設計によるセント・ポール大聖堂は有名である。彼は復興に際して建物建造に石の使用、延焼を防ぐための緑地緩衝帯の整備と区画割を法令に定め、現在のロンドンの原型を作った。王政復古が成り、当時ヨーロッパの最先端と東洋趣味を流行させていたチャールズ2世の宮廷が確立された直後であった為、瞬く間に市民に浸透していった。家具においては、火事の教訓も含み軽量化のため、中国趣味のケーン(籐)張りの家具が流行した。
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GEORGE 1
ジョージ1世 -
QUEEN ANNE
クイーンアン様式ジェームス2世の娘で先王メアリー2世の妹。スチュアート朝最後の君主。1705年イギリスとスコットランドが正式に統合されグレートブリテン王国となる。スペイン継承戦争やアン女王戦争を通してイギリスの領土の拡大を達成した。17回妊娠をするも死産や早世が続き、結果世継ぎを得る事なく亡くなる。家具の様式においては前時代の装飾的なマーケットリー(象嵌)細工から、やはり装飾方法は変わらないが、より繊細でシンプルな象嵌細工へと移行。またロココの影響が少しづづイギリスにも浸透し始め、カブリオールレッグに代表される優美な曲線が特徴となる。
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1672フランスベルサイユ宮殿に政治の中心が移る
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1685フランス国王ルイ14世がナントの勅令を廃止
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BAROQUE
バロック1580年頃イタリアで興り、後フランスを中心としてヨーロッパ中に広まった芸術文化様式。バロックという語は真珠や宝石のいびつな形を表すポルトガル語のBARROCOから来ているが、これは後世の研究者が当てた言葉である。当時はルネッサンスを継承する古典主義の流れと認識されていた。宗教改革などで荒れていたヨーロッパにおいて、調和と均衡を目指すルネッサンスから、劇的な流動性と過剰な装飾性を持って表現するバロックへの移行が成され、これが旧キリスト教勢力と結びつき、宗教改革の波に対抗し、旧キリスト教を印象づける為、より大胆な強調が行われていった。家具おいても想像上の生物や神話をモチーフとした彫刻が多用された。
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GEORGE 2
ジョージ2世 -
EARTLY GEORGIAN
アーリージョージアン -
LOUIS 15
ルイ15世 -
ROCOCO
ロココ18世紀初頭イタリアの影響を受け、フランスで発展した芸術、文化様式。バロックに続き、新古典主義に先立つものであり、バロックをより洗練、変化させたバロック末期の一様式とも言われる。ロココはロカイユ(ROCAILLE)に語源が見られ、それはバロック庭園の中で想像上の空間として創られた洞窟(グロッタ)の岩組を意味した。それが転じて曲線を多用する繊細なインテリア装飾をロカイユ装飾と呼ぶようになった。イタリアの貝殻装飾を範とし、草木の複雑な曲線や文様、中国趣味等も取り入れながらロココに昇華していく。ロココの本場とされるフランスではルイ15世の愛妾ポンパドゥール婦人が宮廷で権勢を振るい、華やかなフレンチロココ宮廷文化を華開かせ、王立のセーブル窯の設立等にも尽力した。繊細、優美、曲線的などがロココを表す言葉だが、全体的に女性的であり、宮廷文化主導であったことが伺える。
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1690ロンドンでコーヒーハウスが大流行
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NEO-CLASSICAL
新古典主義様式1748年イタリアで始まったポンペイ遺跡の発掘を皮切りに古典回帰への流れがおこり始める。そこに18世紀後半に入り、ロココ芸術の過剰で官能的な装飾や軽薄さへの反動として、論理的で厳粛な様式への移行を求める運動が起きた。その範は古代ギリシアや共和制古代ローマに求められ、これをヨーロッパやアメリカ大陸の新政権が新古典主義様式(NEO-CLASSICAL STYLE)と呼び公式に採用していった。イギリスにおいてはGRAND TOURと呼ばれるイタリアへの遊学が流行し、芸術や建築にも影響を及ぼしていった。家具においてはロバート・アダムを中心に建築と内装と家具の融合が試みられ、チッペンデールも傾倒していく。古代ギリシア・ローマの建築様式を規範としている為、家具も直線的で建築的要素を多く含んだデザインになっていった。
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LOUIS 16(NEO-CLASSICAL)
ルイ16世(ネオクラシカル) -
1710王立マイセン陶磁器製作所が設立される。
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1733イギリスで砂糖法成立。
マホガニー
センダン科Swietenia属。日本のセンダン(オウチ)とは異なる。世界的に銘木として知られる。木肌は赤褐色で光沢がある。杢目は素直で密度が高く加工し易い。寸度安定が良い(伸び縮みや反りに強い)材として定評がある。英国アンティーク家具の歴史上では南米キューバ、ジャマイカ、プエルトリコ産のマホガニー、総称してスパニッシュマホガニーが使用される。これは現在入手不可能。また現在伐採禁止や輸出入制限されたマホガニーの樹種も多く存在する。前時代のヨーロピアンウォールナットが18世紀に入り寒波と疫病のため数が激減した。その様な折り1733年イギリスで砂糖法が成立。新大陸やインドなどで大規模プランテーションを経営する有力商人達の意向を汲み、植民地からの輸入品への関税引き下げが行われる。砂糖だけではなく、紅茶やインドで生産された加工物など広範囲にわたり、その中にマホガニー材も含まれていた。需要にたいする供給が取れないウォールナットに代わり、加工性も高く、仕上りも良いマホガニー材が瞬く間に取って変わる。無垢材の使用が中心であったが、突き板加工された材も使用された。 -
GEORGE 3
ジョージ3世 -
GEORGIAN
ジョージアン様式ジェームス1世の曾孫であり、アン女王の又従兄弟のハノーヴァー選帝侯であるゲオルグ・ルードヴィッヒが、アン女王の死後王位を継ぎ、ジョージ1世として即位した1714年からウィリアム4世に至る時代範囲を言う。家具の様式においては1714~1760年までをアーリージョージアン様式、ジョージ3世の治世であり、英国アンティーク家具の黄金期と言われた1760~1810年をジョージアン様式、その後の摂政政治時代をリージェンシー様式またはレイトジョージアン様式と分類する。アーリー(前期)ジョージアン様式においてはクィーンアン様式の流れに、より具体的にバロックの影響が強く見られはじめ、繊細なプロポーションを失い、装飾過多になっていく過渡期様式であると言える。ジョージ1世が即位した時は既に54歳であり、英語は堪能でなく、ほとんどの時間をハノーヴァーで過ごし、政治は内閣に一任していた。次のジョージ2世においても踏襲され、この体制により、国王は君臨すれど統治せずという立憲君主制の基礎が出来上がり、議会政治の発展を促した。これにより市民生活は向上、改善され、後に様々な階層と需要を生み出していく。ジョージ3世においては積極的にイギリス国内の政治に介入し、アメリカ独立戦争、フランス革命、ナポレオン戦争等の局面を乗り切り、産業革命の助けもあり、イギリスは国力を増していく。そのようなジョージアン期においては、様々な需要に答える為、装飾、家具の世界においても数々の巨匠が輩出され、イギリス家具史の黄金期を迎える。かれらはロバート・アダムであり、トーマス・チッペンデールであり、ジョージ・ヘップルホワイトであり、トーマス・シェラトンであった。特にアダムとチッペンデールはフランスで開花したロココ趣味をイギリス風に昇華させ、さらにネオクラシカルスタイル(新古典様式)へと導いていった。またイギリス東インド会社も益々隆盛を極め、より東洋の文物がイギリスに持ち込まれ、第二次中国趣味を生み出している。レイト(後期)ジョージアン=リージェンシー様式は別途記載する。
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REGENCY
リージェンシー -
REGENCY
リージェンシー様式ジョージ3世の精神障害が篤くなり、皇太子であった後のジョージ4世が摂政王太子を努めた期間(1811~1820)をいう。家具の様式上は顕著な変化が現れた1810年からリージェンシー様式とする。またジョージ3世没後、摂政王太子からジョージ4世として即位し、その後弟のウィリアム4世までの期間(1811~1837)を含めてリージェンシーと呼ぶ場合もあり、これを総称して後期ジョージアン(レイトジョージアン)とする。様式的には古代ギリシア・ローマの建築様式を範としたネオクラシカルスタイルを更に遡り、古代エジプトのモチーフが取り入れられた。そこに第3次中国、日本趣味と果てはインド趣味までも混ざり合い一種独特な様式を確立する。ジョージ4世が王太子時代に築いたイギリス南部のブライトンにあるロイヤルパビリオン(ROYAL PAVILLION)が有名である。 EMPIRE(エンパイヤー、フランスではアンピール)様式は同意語である。
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EMPIRE
エンパイア -
EMPIRE
アンピール
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1745古代ローマのポンペイ遺跡の発掘が始る。
新古典主義様式
ジョージ3世の精神障害が篤くなり、皇太子であった後のジョージ4世が摂政王太子を努めた期間(1811~1820)をいう。家具の様式上は顕著な変化が現れた1810年からリージェンシー様式とする。またジョージ3世没後、摂政王太子からジョージ4世として即位し、その後弟のウィリアム4世までの期間(1811~1837)を含めてリージェンシーと呼ぶ場合もあり、これを総称して後期ジョージアン(レイトジョージアン)とする。様式的には古代ギリシア・ローマの建築様式を範としたネオクラシカルスタイルを更に遡り、古代エジプトのモチーフが取り入れられた。そこに第3次中国、日本趣味と果てはインド趣味までも混ざり合い一種独特な様式を確立する。ジョージ4世が王太子時代に築いたイギリス南部のブライトンにあるロイヤルパビリオン(ROYAL PAVILLION)が有名である。 EMPIRE(エンパイヤー、フランスではアンピール)様式は同意語である。 -
1745ポンパドール夫人がルイ15世の寵姫となり権勢を振るう
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RESTAURATION
(BIRDERMEIER)
レストレーション(ビーダーマイヤー) -
1776アメリカ独立宣言
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1793ルイ16世が失脚。フランス革命終結
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ECLECTIC
折衷様式折衷様式と和訳される。雑多な様式が氾濫したヴィクトリアン期において、前時代(例えばジャコビアンやジョージアン)の家具の一部(彫刻パネル等)を流用して、新たな家具に組み込むことが流行した。異なる時代を合わせて一つの家具を造り出すという事で折衷様式と呼ばれる。これは後に家具の年代測定をするに当たり、修復家や美術家にとって厄介な物となる。これが更にヴィクトリアンの時代に、ヴィクトリアン風に過去の様式を再現するリバイバル様式へと発展してゆく。これはヴィクトリアン クィーンアン リバイバル、ヴィクトリアン ジョージアン リバイバル等と長い名称で呼ばれ、実際に作られた物は似て非なる物であった。更にこれが進化し、例えばオークの時代のエリザベシアンとジャコビアンの装飾を折衷し、オーク材で家具を作り、呼称をジャコビシアン様式とし、名称まで折衷した家具が生み出される。これは1940年代ぐらいまで英国で作り続けられ、各時代に合わせたサイズや機能が付加されてゆく。
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ARTS&CRAFTS
アーツ&クラフト運動1870年代より興った芸術運動を言う。その複雑な需要により、雑多な様式と様々な品質の家具が生み出されたヴィクトリアンの時代、ウィリアム モリスを中心に、中世の手工芸的要素を賞賛し、生活と芸術を統一することを主張。実際は過去におけるルネッサンスやネオクラシカルスタイルと同様、懐古主義的な要素が強い。当時著名な美術評論家であったジョン ラスキンが記した、イギリス中世の遺跡や古代ギリシア・ローマの遺跡にスポットを当てた著書『建築の七灯』や『ヴェネチアの石』がブームとなる。この中世回帰の流れに、誤解から生じた日本趣味がブレンドされ、アーツ&クラフツ運動へと形成されていく。そこに当時のトップクリエイター達が集い、家具やインテリア製品、ステンドグラス、書籍やファブリックデザイン等の広範囲において、芸術作品とも言える製品を生み出していく。しかし大量生産の兆しが見えたこの時代、モリス達が造り出したものは結果高価なものとなり、一部の購買層にしか行き渡らず、市場全体の啓蒙には至らなかったが、後のフランスのアール ヌーボーやフランク ロイド ライト等の建築に大きな影響を与えた
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1804ナポレオンがフランス皇帝に推戴される
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VICTORIA
ヴィクトリア -
VICTORIAN
ヴィクトリアン様式約65年に及ぶヴィクトリア女王(在位期間は1837〜1901)の在位期間中の家具の様式を指す。ジョージアン以前はほとんど一王朝=一様式であったが、ジョージアン期に内政の更なる安定がはかられ、産業革命も芽生え、様々な需要に答える為に複数の様式が混在し、これをチッペンデールを代表とする家具デザイナー達が推し進めた。ヴィクトリアン期になり、産業革命の恩恵を最大限に受けたイギリスは、当時ヨーローッパの生産工場と呼ばれ、内外の物資を加工、製品化し世界規模にその産業、工業、商業を発展させていった。人口も爆発的に増加し、多種多用な階層を生み出し、それと共に更に複雑な需要が興っていった。結果家具の様式においては十数種類の様式が混在、同時進行し、それぞれが影響し合い発展していった。ヴィクトリアン期には多種多様または雑多な流行、誇張の時代、粗悪品の氾濫など負のイメージが付きまとうが、その中にもバルーンバックチェア-等に代表される、美しいロココスタイルを継承したVICTORIAN VERNACULAR STYLE(ヴィクトリアンバーナキュラー様式)と呼ばる固有の様式や、ウィリアム モリスに代表されるアーツ&クラフツ スタイル等も生まれている。
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ARTS NOUVEAU
アールヌーヴォー19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパのフランスを中心に興った芸術運動。その名称はパリの画商であるサミュエル ビングの店名 Maison del' Art Nouveauからと言われる。彼は芸術の日本(Le Japon artistique)という月刊誌を発行したり、展覧会を企画するなど日本通としても知られる。イギリスで興ったアーツ&クラフツ運動をベースに、流行の日本趣味や左右非対称や余白の美という日本美術の観念的な部分までも取り入れ、従来の様式に囚われない新しい芸術を意味する。エミール ガレやルイ マジョレル、ドームやギマール等の巨匠を輩出する。しかし第一次世界大戦を境にモダンデザインが奨励され始め、前時代の世紀末的退廃趣味として美術史上顧みられる事が無くなり、その復権は1960年代まで待たなければならなかった。
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2nd EMPIRE
2nd アンピール -
EDWARD 7
エドワード7世 -
1873イギリスでヴィクトリア女王が即位
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EDWARDIAN
エドワーディアンヴィクトリア女王王太子であり、後にエドワード7世として即位。その在位期間である1901~1910年を指す。現エリザベス2世女王の曾祖父にあたる。王太子期間が長く、短い在位期間ではあったが前ヴィクトリア時代からの脱却を進め、優れた外交センスで様々な問題を解決していった。エドワード朝が国王の名称を冠した最後の時代名称となる。現イギリスにとって古き良き時代を指す。家具の様式においては前ヴィクトリアンの誇張されたデザインを、当時の住宅環境に合う様にリサイズし、リファイン(繊細に)された物が多く作られ、優れた銘品も多く残される。現在ではアンティークとしての価値も見直されている。
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EARLY ART-DECO
アーリー アールデコ1910年代半ばから1930年代にかけて発展した装飾様式。その名称は1925年にパリで開催された現代装飾美術・産業美術国際博覧会(Exposition Internationale des Art Décoratifs et Industriels modernes)=通称アール デコ展からと言われる。第一次世界大戦前後の影響を受け、大量生産とデザインの調和を試みた。よって商業ベースにおいてアール デコのデザインは奨励されるが、まだ手工芸的要素や東洋趣味的要素も残され、本当の意味での大量生産に適応する統一規格化されたデザイン=機能的モダニズムの理論に合わない事から、次第に廃れ、やはりその復権は1966年パリで開催された25年代展まで待たなければならなかった。ルルマン等の巨匠を輩出し、当時のアメリカや日本にまで大きな影響を与えた事は事実である。
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1851第一回ロンドン万国博覧会
ロンドンのハイドパークで1851年5月1日から10月15日まで開催された世界で最初の万国博覧会である。ヴィクトリア女王の夫であるアルバート公を中心に企画され近代の工業、産業技術とデザインの祝典として開催された。メイン会場として設計されたクリスタルパレス(水晶宮)は鉄骨の構造にガラス張りという巨大な温室をイメージして作られ、当時のイギリスの富と工業力の象徴とされた。 現在その模型をロンドンのヴィクトリア&アルバートミュージアムにて観る事ができる。ヨーロッパの生産工場と謳われたイギリスの力を喧伝する最高の舞台となり、各国の最新技術が展示され、技術革新を促進する役割を担う。これによりヴィクトリアンの時代を鉄の時代、動力の時代、万博の時代等と呼ぶこともある。家具においてはヴィクトリアンを代表するバルーンバックチェアーやクリスタルパレスの窓の形を模したトーネット社製のベントウッドチェアー(曲げ木椅子)等が発表され、普及していった。
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1852世界初のデパート ボン マルシェがパリにオープン
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1873イギリスでヴィクトリア女王が即位
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MODERN
モダン -
MODERN
モダン -
1862第二回ロンドン万国博覧会開催。初めて日本室が展示される。文久遣欧使節が視察
1862年に開催された第二回ロンドン万国博覧会において初めて日本室が設けられる。丁度文久遣欧使節の視察が重なり、当時駐日大使であったオールコックにより選ばれた品々は日本の伝統工芸品を含んでいたが、農耕機具や日用品まで展示されており、その展示品を観て驚愕するのである。評判は上々でありイギリスにおける日本趣味ブームの切っ掛けとはなったが、これが後の1867年第二回パリ万国博覧会への積極的な参加に繋がる。
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1863ロンドンで世界初の地下鉄が開通。京都で新撰組が結成される
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1867第二回パリ万国博覧会開催。
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1883鹿鳴館が開館
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1888ロンドンで切り裂きジャック出現
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1889フランス革命百周年を記念してパリ万国博覧会が開催。エッフェル塔が建設される
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1891イギリスのコナンドイルがシャーロック ホームズの連載を開始
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1896第一回近代オリンピックがアテネで開催される
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1901第一回ノーベル賞授賞式
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1902日英同盟が締結される
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1912タイタニック号が北大西洋で氷山に衝突し沈没
イギリスで20世紀初頭に建造されたイギリスのサウスハンプトンとアメリカのニューヨークを結ぶ豪華客船。1912年4月14日深夜、北大西洋上で氷山に衝突し沈没。その事故の背景には様々な謎があると言われている。内装は英国伝統の様式からフランスの様式まで取り入れられ、当時の最先端であったアール デコも採用された。使用された食器類に関しては、ロイヤル クラウン ダービーの磁器、ジョージ ジャンセンの銀器、サン ルイのガラス食器等当代一の銘品が使用されていた。
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1914第一次世界大戦が勃発
1914年から1918年にかけて戦われた人類史上最初の世界大戦。様々な分野において悲劇的な被害が出たが、逆説的に言えば様々な分野においての技術革新を促したとも言える。現在のイギリスの博物史家、美術史家の観点におけるアンティーク家具の定義として、第一次世界大戦の技術革新が起こる前、1914年以前の物を指すという考えが主流となっている。