GEOGRAPHICA

William Morris

2018/04/19 | 読み物

ジェオグラフィカでは椅子の張り生地にウィリアム・モリスのデザインしたものを良く選びます。

19世紀英国の詩人でありデザイナー、そして社会主義者でもあったウィリアム・モリス、及びモリス商会の残したデザインは時代を超えて支持され続けています。
植物をモティーフにした図柄は豊富なバリエーションを持ち、アンティークの椅子にも良く合います。
工業化により大きく変貌を遂げようとする当時の英国において、自然との調和を訴え手仕事にこだわったモリスの思想は美術と工芸の近代的な融合、まさにアーツアンドクラフツを目指したものでした。

様々な分野において精力的に活動した彼は偉大な業績を残し、現代を生きる我々の生活にも大きな影響を与えました。
当時の最先端のデザイン生地と当時の流行の家具が100年の時を経て同じように手仕事にこだわるアンティークショップで邂逅することに不思議な巡り合わせを感じます。

果たしてウィリアム・モリスとなどの様な人物であったのか、その人生を辿ってみましょう。

生い立ち~良き友との出会い

ウィリアム・モリスは1834年、富裕な株式仲買人であった父ウィリアムと母エマの間の第三子、長男としてロンドン近郊のウォルサムストウで生まれました。 一家はモリスが6歳の時にサセックス州のウッドフォードにある大邸宅、ウッドフォード・ホールに移ります。大きく贅沢な邸宅、広大で豊かな庭、それに続く美しい森に囲まれて育った経験は、モリスのデザインの源となっており、建物や森などのイメージはそこで刻まれたのでしょう。 1847年、モリスが13歳の時に父親が突然没します。父親が絶大な力を持って家族を支配していた19世紀のイギリスにおいて、母子家庭で育ったモリスは、時代に反逆した自由奔放な生活を送る事ができました。 1853年、モリスはオックスフォード大学に入学し、そこで生涯の友となるエドワード・バーン・ジョーンズと出会います。一人でいる事が好きなモリスでしたが、バー ン・ジョーンスのおかげで様々な人と出会い、美術や建築に目覚め、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティらラファエル前派、そしてジョン・ラスキンと関わりを持つようになります。

結婚~レッドハウス時代

1856年、大学を卒業したモリスは建築事務所に就職し、そこでフィリップ・ウェブに出会います。

その後ロンドンに移ったモリスはロセッティの提案 による「アーサー王の死」をテーマにした壁画を描くプロジェクトに参加します。その壁画のモデルとなったのが、後にモリスの妻となるジェーン・バーデンで す。馬丁の娘であったジェーンは、ヴィクトリア期の美人とは全く異なり、すらりとしたエキゾティックな雰囲気の女性でした。

「アーサー王の死」を描いた壁画は残念ながら、参加した者のうち誰もフレスコ画の技術を持っていなかったため、どんどん色が褪せて消えてしまいました。その失敗から、モリスは古き良きものの保存について学ばなければならないと強く感じました。そしてその後のモリスの理想の核となる、中世の職人のような手仕事による自然と協調したもの作りの偉大さや重要性を見出し、その理想を具現化する為、抽象的なイメージの世界から家具や食器、紙、布を作り出す工芸の世界へと関心を広げます。

1859年、ジェーン・バーデンと結婚し、友人フィリップ・ウェブが設計した新居レッド・ハウスで新たな生活を始めます。レッド・ハウスのインテリアや家具のデザインは評判となり、モリスは本格的にデザインの制作活動を始める決心をします。

1861年にモリス・マーシャル・フォークナー商会を設立した彼は1862年に最初の壁紙「トレリス」をデザインし、ステンドグラス、刺繍、家具な どを制作する工房を始めました。レッド・ハウス時代は短いですが、モリスにとってもその仲間にとっても最も楽しい時代であったといわれています。 しかし幸せな期間は長くは続かず、株価の暴落に伴い徐々に事業は傾き始め、また妻ジェーンとの溝も深まっていきます。モリスの物作りへの情熱や理想主義についていけなくなったジェーンは以前絵のモデルをしたモリスの友人でもあるロセッティと親密になっていきます。

社会主義への傾倒~再びデザインの世界へ

1865年、モリスはレッド・ハウスを売却し、ロンドンのクィーンズスクエアへ転居します。その後1871年にテムズ河上流にロセッティと共同で別荘ケルムスコット・マナーを借りますが、そこで妻ジェーンとロセッティの関係が明らかになります。

更に、モリスの理想主義的な制作は利益をもたらさない為、共同経営者は離れていき、モリス単独の「モリス商会」へ改組します。このように昔の仲間や家族から孤立していきながらもモリスは自分の理想を追い求め、また共同社会の問題へと関心を広げます。

そのひとつがアーツ・アンド・クラフツ運動です。当時産業革命による機械化、工業化が盛んに行われ、大量生産による安価な、しかし粗悪な商品が溢れていました。
モリスはこうした状況を批判して、中世の手仕事に帰り、生活と芸術を自然に根ざしたものに統一することを主張します。
そして生活を芸術化するためには、モリスの理想とする社会の実現が不可欠だと感じ、当時ロンドンで隆興していたマルクス主義を熱烈に信奉し、エリノア・マルクス(カール・マルクスの娘)らと行動を共にするようになります。

1885年、社会主義同盟を結成し、より急進的な社会主義運動を行いました。しかし、1880年代後半になると、社会主義への弾圧が激しくなり、それに伴う内部対立の激化によってモリスの理想主義は孤立化しついには追放されます。

そして、1890年代になると、モリスは政治の世界からアーツ・アンド・クラフツの世界へ戻ってきます。活字のデザインに夢中になり、1891年、ケルムスコット・
プレスを発足して最初の書籍『輝く平原の物語』を刊行します。しかしこの頃よりモリスは病気がちになります。自分の死期が近づいていることを悟った彼は、ケル
ムスコット・プレスの傑作となる『ジェフリー・チョーサー作品集』のデザインに最後の力を注ぎました。

1896年6月、念願の『ジェフリー・チョーサー作品集』が完成しました。ずっと作りたかった〈美しい本〉を制作したウィリアム・モリスは同じ年の10月3日、ケルムスコット・ハウスにて62歳の生涯を閉じました。
モリスが作り上げた優れたデザインは様々な製品の形で現在の私たちの生活の中に溶け込んでいます。そして、それぞれのデザインは、理想を追い求め続けたモリスの生涯の記憶の表象として、現在の私たちにそのメッセージを伝えます。